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祖父母と息子と

2025.10.07

私のこと

第1回:津山で育ててもらった日々(幼少期〜中学生まで)

私は津山の産婦人科を生業とする家の次男として生まれ、小学2年生までは父の仕事の関係で岡山市内で過ごし、1994年4月、小学3年生で津山に転校してきました。

 

小学校や中学校の思い出は、良かったことも嫌だったことも強烈に自分の中に残っています。

 

小学校3年生の時に宮川の河川敷で、小学校の高学年の子たちがジャンプして遊んでいるのを見て、「自分も絶対に飛べる!」と思いきってジャンプ!…まではよかったのですが、着地して転んで、肘を骨折してしまいました。

まわりのみんなが心配して声をかけてくれましたが、痛みよりも「飛べた!」といううれしさの方が強かったことを覚えています。今思えば、その頃から“ちょっと無茶でもやってみたい”という性格だったのかもしれません。

 

中学生になると、友達と遊ぶのが何より楽しく、友達の家に泊まることもしょっちゅう。

勉強や部活に真面目に取り組む優等生には憧れず、むしろ、「家が医者だから、いずれ医師にならなければいけない」という決められた型にはめられるのが嫌で、親にも先生にも反発ばかりしていたのです。

世界が狭くて、生き苦しさを感じていました。大人たちは、昔ながらの考えを当然のように押しつけてくるように思えて…

子どもの頃から、思い立ったらすぐ行動するような無鉄砲な性格だったので、両親には迷惑をかけてばかりでした。

 

祖父母には、子どもの頃からすごく可愛がってもらいました。

祖父は、海軍兵学校で教育を受けた人で、子どものころから祖父によく「海軍の五省」や山本五十六先生の「やってみせ 言って聞かせて させてみせ 褒めてやらねば 人は動かじ」を教えてもらいました。

その頃は、子どもだったので理解はできませんでしたが・・・

 

「立派な人物になりんさいよ」

 

祖父からよく言われたこの言葉です。今でも心に残っています。

 

「立派な人物って、どんな人なんだろう」

 

子どもながらにそう考えていました。

 

その答えはまだ出ていません。

ただ、祖父の言葉は、“世のために動ける人間になりたい”と常に思わせてくれます。

 

祖母の実家は、尾道です。

夏休みに何度か連れて行ってもらった実家には、大きな畑があって、そこでとれた野菜をその場で食べさせてもらいました。

海と山に囲まれて、どこかのアニメの世界にでも迷い込んだような、そんなうれしい気持ちになったことを覚えています。

 

祖母は自分が子どもの頃、尾道で育った話を私によく聞かせてくれました。

そんな祖母の父(私の曽祖父)は医師であり、尾道市長だった人です。

きっと祖父が言う立派な人物だったんだろうな、そんなふうに思っていました。

 

幼いころの津山での出来事は、今でも私の心の中に強く残っています。

 

人とのつながり、地域の優しさ、そして祖父や先人からの教え――その一つひとつが、私を「人のために動ける人間になりたい」と思わせてくれたのです。

父、兄弟と

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